当山は真宗大谷派に属し、荒居山法喜院髙德寺と号する。当山開基は釋了智である。
釋了智は鎌倉時代初期に生まれ、名を佐々木高綱(ささきたかつな)といった。源氏武士の家系で宇治川の合戦において功名を馳せ、備前国(現在の岡山県)、 安芸国(現在の広島県)の守護を命ぜられた時もあったが、時代の波には勝てず、武士の職を辞して出家し高野山にのぼる。その後、稀なご縁にて越後(現在の新潟県)で親鸞聖人(しんらんしょうにん)と出遇い、本願念仏の教えを聞いていく人(真宗門徒)となられた。
1100年代に長野県松本に一寺を開き「正行寺(しょうぎょうじ)」とした。
そののち代を経て上州(現在の群馬県)荒居に移り「荒居山髙德寺」を建立した。当寺の中興の祖は釋宗信である。本願寺第十三世宜如上人に深く帰依して、元和2年に下総国相馬郡(現在の千葉県久留里)豊田村に移った。
その後、江戸浅草清島町に移る。明治41年に区画整理計画により現在地に移転し、太平洋戦争中に空襲に遭い、本堂・庫裡(くり)を全焼した。
現本堂は昭和57年に再建、書院と新井白石記念ホールは平成7年に完成した。境内墓地内には江戸中期の朱子学者で近代思想家として有名な新井白石(あらいはくせき)夫妻と一門の墓があり、都の旧跡に指定されている。
髙德寺と新井白石先生の御因縁
先生はその生涯(明暦三年(1657年)~亨保十年(1725年))に二度にわたり当寺に寄食された。即ち延宝三年(1675)から同七年までと、元禄四年(1691)から同六年までである。
先生の父、正済(まさなり)のご血縁が当寺の坊守であった関係で、何れも貧苦不遇の時であった。しかし先生はそれに負けず勉学にいそしみ、特に前者の時代には独学で万巻の書を読まれた。夜になると寺の屋根にのぼり月光で書を読み、睡くなると水をかぶり寸暇を惜しんだと寺伝される。
後者の時代には数々の著作をされたのも有名である。当時の住職との親交は先生の著「折りたく柴の記」に記されている。なお、太平洋戦争中の空襲により、「折りたく柴の記」(書写本)をはじめ、髙德寺に保管していた白石先生の書籍、携帯品等の貴重な品々がすべて焼失してしまったことは、大変に残念なことである。
墓地には、美容家・山野愛子さん、明治時代の女性記者・磯村春子さん(NHKはねこうまのモデル)、芸能界では沢村国太郎さん、長門裕之さん、南田洋子さん、柳家三亀松さんなどが眠られています。